馬超vs曹操!潼関古戦場と馬超の城へ

中国の遺跡

はじめに

日本にはたくさんの歴史ファンがいますが、特に人気があるのは戦国時代と幕末、そしてもうひとつ、忘れてはならないのが古代中国の三国時代です。

三国時代「三国志」は、小説、漫画、ゲーム、ドラマ、映画、人形劇など、様々な形で歴史ファンを魅了してきました。私もその中の一人で、子供の頃から漫画やゲームで三国志に慣れ親しんできました。

昨年、今年と二年連続で三国志ゆかりの遺跡を訪れる機会に恵まれました。ここでは、馬超の城と馬超vs曹操決戦の地・潼関を紹介します。

馬超のプロフィール

その前に、馬超の簡単なプロフィールを。馬超は西暦176年、右扶風茂陵(現・陝西省咸陽市楊陵区五泉鎮)で生まれました。前漢の名将・馬援の末裔といわれています。

211年、関中の軍閥だった馬超は、同じく関中軍閥の韓遂らとともに曹操に対して反乱を起こしました。この時起きた戦いが潼関の戦いです。馬超の勢いは凄まじく、曹操相手に善戦しましたが、あと一歩のところで敗れました。

その後、漢中の張魯を頼り、張魯が曹操によって滅ぼされると、劉備の元へ投降しました。そして、潼関の戦いから11年後の222年、47歳でこの世を去りました。

馬超のふるさと・馬超嶺城

馬超嶺城址

馬超嶺城はその名の通り、馬超が駐屯した城といわれています。東西200m、南北400mの長方形の城で、「馬超嶺」と書かれたお城風の建物の中に、基底部2.3m、高さ2.8mの版築が残っています。城内からは、後漢時代のものと思われる土器片や瓦片が見つかっています。この城が馬超の城だという確たる証拠はありませんが、この辺りが馬超のふるさとであることは間違いないでしょう。

馬超嶺城の版築

絶景!潼関古城

潼関古城と街並み

潼関古城は…私が訪れた2018年3月時点では、建設工事の真っ最中でした。ここには、遊園地まであります。ですのでこの城は、遺跡というより観光施設といった方が適切なのかもしれません。後漢末期・曹操時代の潼関は、ここより南の現・楊家庄、城北村になります。

さて、そんな潼関古城ですが、ここからの眺めは最高です。なんと、黄河を一望することができるのです。曹操が渡った黄河…三国志ファンなら、この景色を見るだけで潼関古城に来てよかったと感じるはずです。

潼関古城から見た黄河

12だけど16?潼関十二連城

潼関十二連城

潼関古城から南下していくと、山上にポコポコと突起物のようなものがいくつも見えてきます。これらは、潼関十二連城と呼ばれているノロシ台です。ノロシ台は、敵の来襲などを知らせる施設で、こちらのノロシ台は、潼関(関所)に付随するものと思われます。また、12連城という名前ですが、実際には16ヶ所のノロシ台が確認されています。おそらく、昔は12ヶ所しか確認されていなかったのでしょう。

潼関十二連城が築かれた時期に関しては諸説あり、曹操時代のものではない可能性もあります。しかし、地形は当時と変わらないはず。関所の周りは深い谷。関所の先には大軍が待ち構えている。そこを突破するのは至難の業でしょう。

潼関十二連城のひとつ

おわりに

潼関を挟んで西側に敵の大軍が待ち構えている時、潼関の東側から西側へ抜けるには、潼関の北を流れる黄河を渡り、黄河の北側を西へ進み、さらに西を流れる黄河を渡るのがベストか。だから、曹操はそのような行動を取り、馬超の背後を突いたのか…と黄河を見ながら思い耽っていました。まさに「百聞は一見にしかず」です。

馬超嶺城空撮

私が馬超嶺城を訪れた2019年6月、城の前は高速道路の建設中でした。この時は、建設現場の前に駐車し、その脇から歩いて入ることができましたが、高速道路が開通すると見学するのが難しくなるかもしれません。興味がある方はお早めにどうぞ。

アクセス

馬超嶺城
所在地:陝西省咸陽市楊陵区馬超嶺
行き方:火車「楊陵駅」からタクシーで20分。

潼関古城
所在地:陝西省渭南市潼関県港口鎮
行き方:火車「潼関駅」からタクシーで30分。

以下の資料を参考にしました

塩沢裕仁(2016)「函谷関遺跡考証―四つの函谷関遺跡について―」『東洋文化研究所紀要』第169册
譚其驤編(1982)『中国歴史地図集』中国地図出版社
国家文物局編(1998)『中国文物地図集・陝西分冊』西安地図出版

コメント

タイトルとURLをコピーしました